2016年10月

とは言っても、夫が成功した人しか参加してないようにも思うが。
自分が成功した女子も参加している。

といっても、そう言えば・・・卒業以来、一度も顔を出していない同級生が数人いる。
全員、希望校に入れなかった生徒。
だが、そんな生徒でも、同窓会に、にこやかな顔で参加している人もいる。
中学時代のエピソードをネタに、盛り上がっている。
官僚であろうが、教授であろうが、関係なし。オマエ、オレ。呼び捨て。

わたしは、もう、今度こそは、同窓会に参加しないつもりだ。
いつも、不参加の気持ちを強く持っているのに、「参加してちょうだい~、お願い~」と
世話役から電話がかかってくると、引き受けてしまう。
意志が弱い。

前回は、中学時代に一度も話したことがなかった男子と、同じテーブルだった。
「○○くん、一度も話したこと、なかったね。ちなみに、あなた、友達いたの?」
と、わたしは、いきなり切り出してしまった。
やはり、彼には友達があまりいなかったようで、中学時代は、親の進めた進路に乗っていただけで
何事にもさほど自分の意志や自覚が、なかったようだったとか。

わたしが、一度も話したことがない、当時、ちっちゃかった、そんな男子となぜ話す気になったかと言うと、
爽やかな顔をしていたからだ。
いくらなんでも、すねていたり、荒んでいたり、そんな状態ではなさそうだ。
話せば、アクのない会話、こころは、ひんまがっていなさそうだった。
ちゃんと日本語が通じた。

彼は、役人から教授に転身したばかりだった。
役人の世界は、ある年齢に達すると、こうやって人を減らしていくのか、と理解した。
でも、役人に対する先入観である、四角四面な偏狭なタイプではなかったが、
中学生の彼と、中学生のわたしとでは、まだまだ未熟で、接点を見つけることができなかったようだ。

子供たちが自立、独立している今、
実家である親の家(今、わたしが住んでいる、わたしのお気に入りの家)の処分を彼らは、もう視野に入れている。
たんなるシュミレーションではあるものの、ちょっとショックだった。

わたしは、自分の実家を大切に愛おしく思っている。
できる限り、維持したい気持ちだ。

が、子供世代は、自分たちのことだけで精一杯。
それ以上の負担を強いられたくないという思い。
わからないでもない。

わたしが大切に思っているもの、大好きなものは、なにも、子供にとっては、大事とは限らない。
すべて、ゴミ。
家の中の不用品の山を見渡し、処分するのにも、お金がかかりそうな現状を見て、子供はため息をつく。

仮に、不用品をすべて処分し、すっきりした暮らしを手に入れたとしよう。
が、いくらすっきりしようが、家そのもの、箱モノが不要なので、売却を検討するのも、選択肢の一つの香港護眼中心ようだ。
出口を考えずに作られた、大きな、塩漬け不良債権だそうだ。

世代の違い。
わたしは、けっこう古い地域で育ったので、旧式の感覚なのかも知れないが、
今風の考えには付いていけない。
母や義母などは、想像もできない考えだろう。

時代の流れとはいうものの、こんなにも考えが親子でも違うのかと思うと、驚きを隠せない。
長い歴史など、彼らには、まったく、たんなる負担なのかと思うと、
これまで維持してきた人々の軌跡が虚しいものに感じる。

人は、この世からいなくなれば、それまでか。
残った者の好きなように、思うようにすればいいのだろう。
受け継ぐということは、いかに難しいことなのか、今頃になって重く捉える自分がいる。

自分がいかに大切なものAmway傳銷 であっても、子供にとっては、そうでない。
その現実を目の当たりにすると、なんだか、複雑な、頭ではわかっても、でも、情では、理解できない。
実際に、家を売る手続きに入っているわけでもなんでもないが、
時期が来たら、そうなる可能性は大いにある。

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